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Happy Retirement [あるスチュワーデスの思い出]

先日のクラシックジャンボ引退のニュースから、久しぶりで先週CA時代の思い出を書きました。
これをきっかけに、冗漫な昔語りに終止符を打とうと思います。
始めと終わりの事を簡単に書かせていただき、これを最後に致します。

長い間40~20年も前の話におつきくださいまして、有難うございました。

 

1969年のおんぼろ訓練所での訓練開始から、途中で完成したハイテクシュミレーションを備えた訓練センターに移り、ジャンボ第一機就航の年に私も一人前になって飛び始めました。
狭くて古い羽田空港から10年間フライトし、後の10年は成田新東京国際空港!からの乗務でした。
両空港とも、その後進化に進化を遂げ、私は今たまに行っても、当時のオフィスがどこにあったのかさえ分かりません。
世界の空港が移転、改築で立派になり、かつての慣れた土地に旅行するにも迷子になるばかりです。

大雑把に言ってですか、何事につけ世界的な流れは自国趣味を押し出すより、国際的な方向に向いているようですが、機内で働くCAも、多くの航空会社で様々な人種がサービスに当たっていますね。
私が退職した1990年前後がその変わり目だったのでしょう。今ではどのエアラインのフライトに乗っても、どの国の飛行機か分からなくなりましたね。
安全で快適であれば、それが何よりです。

私的な事も少し…
アラサーというよりは充分にアラフォー、と言われる歳になってから結婚し、娘が三歳ちょっとになるまで飛んでいました。

     お相手はお客様だった大富豪? それともcool!なパイロット?

残念でした! 地味に、家庭ぐるみ親しかった幼馴染です。(あらっ、○○○ちゃんごめんなさい)

最後のサンフランシスコへのフライトには、母が早くから自分と孫のチケットを買い込み、娘を連れて乗って来てくれました。
機内で娘に「おかあさ~ん」と呼ばれるので、制服姿の私は母たちの席に近づくことがはばかられました。
後で、ほんとの親子とはご存じない隣の席のお客様に「実は… 」とお話しすると、「人懐こいお嬢ちゃんだなと思ってましたよ」とニコニコして言ってくださいました。

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 クルーのおねえさんの

 帽子をお借りして。

 

たった数ヶ月で辞めるスチュワーデスでも最後のフライトの終わりには必ず涙を見せるものです。
それなのに私は嬉しくて、ニコニコで、ねぎらってくださった同僚や上司は物足りなかったのではないかしら。
だって数えきれない良き思い出と経験を得て、これからは毎日幼い娘や家族と一緒にいられる、新しい仕事が私を待っている、そして、365晩、体を水平にして眠れる、 と思うと嬉しくて嬉しくて…

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かつてのお客様、上司、同僚の皆様、
そして安全運行を支える全ての方々、
今更ながら、有難うございました。

このシリーズをお読み下さった
読者の皆様、
有難うございました。

 

 

               。。。~。~。~☆。☆。☆~。~。~。。。

料理に関する記事の殆どを、「世界の家庭料理を作って食べる会」 のブログhttp://corner-house.blog.so-net.ne.jp/ に、順次移させていただいております。
カテゴリーは「世界のお惣菜」と「私のレスピーブックより」です。
「Lilca Days 世界は私の学校」 とあわせて、そちらも宜しくお願いいたします[黒ハート]


クラシックジャンボ [あるスチュワーデスの思い出]

 

今日7月31日、クラシックジャンボが日本の航空会社での最後のフライトを終えたというニュースを見ました。

インタビューを受けた方々は、若い乗客もお歳を召した方も、一応に感慨深かったようです。

私も大変感慨深く、このニュースを見ました。

ジャンボの第一機が就航した1970年は、私にとっても、入社後の長い訓練を終えてスチュワーデスとして飛び始めた、忘れられない年だからです。

ジャンボ機は、大きさはもとより、性能や設備も、お客様や乗員の数も、それまでの飛行機とは革命的に違うように見えたものです。
従来の飛行機が乗り物なら、ジャンボは正に建物でした。
なぜなら、客室にいて目に入るのは窓の外の大空ではなく、客室内の壁やドアですから。

何度も保安訓練とサービス手順の訓練を受けて、不安と期待で第一機を迎えたものです。

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39 アラスカへ! [あるスチュワーデスの思い出]

 

おぉ~~ アラスカ !   あぁ~~ Wasilla !!

アメリカ共和党の副大統領候補としてサラ・ペイリンさんが出現するまで、日本でアラスカが話題になることは多くはありませんでしたね。
ましてや彼女の根拠地の「ワシラWasilla」と言う地名が、日本のメディアにいささかでも登場するとは、思っても見ませんでした。

今、この季節に、アンカレッジの北約70キロのワシラへのドライブがどんなに素晴らしいか、普通そんなこと考えませんよね。

 

そこで・・・                      (アメリカの大統領選について論じようと言うのではありません)

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37 空のたび と 旅行 [あるスチュワーデスの思い出]


久しぶりに 飛行機の話題です。

先日、救命胴衣などの説明が昔はビデオではなくCAの実演でされていた話しを書きましたら、多くの方から今でも実演で行われている旨のコメントをいただきました。
ジャンボやDC10など大きい機材が就航しているであろう長い路線でも、今も実演しているエアラインがあることに驚きました。

こんな風に、今の状況に大変疎い私の昔の話に、もう暫くお付き合いください。

そもそも映画やビデオが空の旅に持ち込まれるようになったのは、1970年前後のボーイング747ジャンボジェットの導入の時です。 

ジャンボジェットの導入は、客室サービスの点でも、大げさに言えば革命的な出来事でした。
それまでは一本の通路の左右に座席があるだけですから、行ったり来たりの前後移動だけ。
そして一番前か一番後ろに立てば、客室がほぼ全域見渡せます。
それに対して、ジャンボで二本の通路が出現したと言うことは、それを横に結ぶ左右の動きと、更には二階席への上下の動きまで加わったわけです。
あちらこちらに死角もでき、その中で動き回っている私たちにとっては、「乗り物」から「建物」に変わった位の大きな変化でした。
お客様の様子を一目で把握する事は、もう出来なくなりました。
乗員同士、誰がどこで何をしているのか分からない様な状態となりました。

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36 フィリピンの家族 [あるスチュワーデスの思い出]

私にとって日本以外で一番知り合いが多い国はフィリピンです。
マニラへはCAとして100回くらい行ったのですが、そればかりでなく、母が留学生の世話をしておりその学生の中にフィリピン人が多かったためです。彼らとは母ばかりでなく私たちも30年以上を経た今もお互いに親戚のように行き来し、お付き合いいただいています。
30年前にはたち前後の学生だった彼らが、社会人になり、結婚し、子供を育て、社会の中枢を担うおじさんおばさんになった今も国を越えて親しく思える相手であることは本当に幸せです。今更ながら母の世話焼きに感謝してます。

 

                  ~~~☆☆☆~~~

世界には大きな貧富の差がある事を知識として知ってはいましたが、私は20代半ばにして漸くこの国で始めてそれを実感したように思います。
勿論フライトで行って本当に貧しい人々が生活しているところに行くわけではありませんが、それでも学校にも行かず、一日中炎天の路上でタバコを一本単位で売る小さな子供達や、田舎の人々の貧しい生活を垣間見ました。
一方で、留学生達の実家にも招かれ、日本では私など経験することの無い優雅な生活も見せていただきました。私費で日本に来ていた学生たちは大富豪の子弟たちか、大変優秀な(この点でも私たち家族とは大違いな!)国費留学生でした。

 

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35 酸素マスクと救命胴衣 [あるスチュワーデスの思い出]

 

飛行機に乗ると離陸前に必ず上映されるビデオがありますね。安全に関するお知らせです。
皆様は、意識してちゃんとご覧になってますか?

今はどこの航空会社でもビデオですが、昔はスチュワード、スチュワーデスが生で演じていた事を、中年以上の方なら憶えておいででしょう。

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34 昇格 [あるスチュワーデスの思い出]

私が入社した頃はスチュワーデスは30歳が停年だったことは以前書きましたが、私自身が30になるより前に停年は40歳に延長され、40になる前に45歳に延長され・・・  と、結局停年に届かずじまいでした。そして女性も上の職位に上がることが出来るようになり、退職するまでの間に74年と78年の二回、昇格のための訓練を受けました。

上位職になれば責任範囲が多少広がり、収入もわずかであっても増えます。でもそれらのことより、「スチュワーデスの停年」に書きましたように、女は万年平の時代から始まった私ですから、昇格できる様になったその事が、とっても貴重に思え嬉しかったものです。
こんな時代の事、今の若い人たちには想像できないかも知れませんね。
でももっと前には、どの職業でも女性が社会で長く働くには、様々な困難を乗り越えなければならない時代があった訳です。
今のように各界で女性が活躍するようになるには、勿論様々な社会的要因がありますが、先輩達が苦労を重ねて実績を作ってくださった事も事実でしょう。だから私たち、そして今の人たちがあるのだと思います。
そして未来、男女に関わり無く、皆がおおらかに、ゆとりを持って働き、正当に評価される時代が早く来ると良いと思います。

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33 27年前のフライドで [あるスチュワーデスの思い出]

 

今から27年前の冬、ロサンゼルス発東京行きのファーストクラスに、一人の日本人青年実業家がお乗りでした。
浅黒く日焼けし、爽やかな、普通なら快活であろう、若きジェントルマンとお見受けしました。
お気の毒にも足には包帯を巻き、松葉杖をついてのご搭乗です。

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32 イスラム圏滞在記 その3 最終回 [あるスチュワーデスの思い出]

「イスラム革命前のテヘラン」と、「イスラム圏滞在記その1」で1970年代のかの地の服装について書きましたが、革命後の服装について詳しく書かれているrinoさんのブログ「イラン女性の服装」http://rinohome.blog.so-net.ne.jp/2008-03-04を拝見してびっくりしました。革命後は、イランだけでなくイスラム諸国全体が更にイスラム化されたと聞いていましたが、本国イランで外国人に対してもそこまで厳しくなったとは、想像を絶する変化です。
革命とは斯くも大きく社会を変えるものなのですね。

さて、1979年のイラン・イスラム革命前の周辺諸国の話の続きです。

中東イスラム圏は、共通の宗教的価値観と、その多くが共通の言語を持つ15~20もの独立国が存在する広い地域です。更に東南アジアやアフリカなどを含め、大変広範囲に渡る人々がコーランの教えに従って生きている訳です。

一方私たちの方は、日本語を公用語とする国は日本のみ、宗教的価値観を共有する他国は無いと言うわけで、この点で対極的な国でしょう。また、これらの国々では政治から個人の生活まで宗教的理念に則っておこなわれているのに対し、この点でも非宗教的な日本は、対極にあるのではないでしょうか。

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31 イスラム圏滞在記 その2 [あるスチュワーデスの思い出]

前回のイスラム革命前の中東滞在記http://lilac-days.blog.so-net.ne.jp/2008-03-01の続きです。

私自身が滞在したことのある中東・湾岸諸国は・・・  
パキスタン、イラン、クエート、アラブ首長国連邦、バーレーン、サウジアラビア、エジプトです。けれど残念ながら、個人的なお付き合いは、日本に住んでいたパキスタン人の女性と短期間あっただけです。これらの国で家に招かれた事もありませんでした。

どこに行っても店員は親しげに話しかけて来ますが、殆ど男性で、しかも商売の話しかしませんから、人々がどんな風に生活しているのか、何を考えているのか知る機会はあまりありませんでした。

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30 イスラム圏滞在記 その1 [あるスチュワーデスの思い出]

  前回のテヘランhttp://lilac-days.blog.so-net.ne.jp/2008-02-23に続き、イスラム革命前の周辺の国々の話です。   当時は今のように中東が緊迫した状態ではなかったので、広域に路線網を持つ航空会社は、パキスタン、イラン、イラク、サウジアラビア等など 多くの中東・湾岸諸国に定期便を就航させていました。そしてビジネス客は勿論、ヨーロッパ人を中心に観光客も随分滞在していました。けれど現在ではこれらの地域の多くは、外務省の地域別危険情報http://www.anzen.mofa.go.jp/index.htmlで、「渡航の是非を検討してください。」にランク付けされています。つまり「どうしても行かなければいけないの?もう一度考え直して!」と言うところでしょうか・・・

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29 イスラム革命前のテヘラン rinoさんのブログに呼応して [あるスチュワーデスの思い出]

イランの首都テヘランについては、去年8月のブログ・「第三次印パ戦争」http://lilac-days.blog.so-net.ne.jp/2007-08-06-1でも少し触れましたが、Home Sweet Homeのrinoさんの最近の記事・「海外回想録・イラン」http://rinohome.blog.so-net.ne.jp/2008-02-22で、革命後のイランを垣間見せていただき、大変遠くなってしまったイランに思いを馳せています。

革命前のイランしか知らず、その後がずっと気になっていた私に、rinoさんの記事はとても興味深いものでした。
 

私は、1974年から77年ころまで3~4日のみの滞在ですが、何度も行きましたので、その頃の思い出をもう一度辿ってみることにいたします。



テヘランは鋭くとがった山々に囲まれた盆地ですが、それらの山には殆ど緑がみえず、空港から街までも岩砂漠のようなところを通って行きました。けれども中心地や大学周辺の大通りには豊かに街路樹が繁り、女性たちもファッショナブルな服装で颯爽と歩いているので、まるでヨーロッパの都市にいるようでした。

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28 ソ連・モスクワへのフライト [あるスチュワーデスの思い出]

今日のようにどんよりと寒い日には、思い出すフライトがあります。
モスクワへのフライトです。

今でもロシアを訪れるにはビザが必要なようですが、ソ連時代、ビザを取るのは簡単ではなく、私達も一部の乗員だけが取り、一年間モスクワ経由のヨーロッパ線ばかりを飛びました。

私は1991年のソビエト連邦崩壊以前しか知らず、今と比べる事が出来ないのですが、当時は旅行者にも様々な制約がありました。

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26 仕事の醍醐味 [あるスチュワーデスの思い出]

交通機関の乗務員の仕事と言うのは、物理的には日々完結します。
大雑把に言えば、目的地に到着すればそれで完結です。

何ヶ月も何年もかかって一つの仕事遂行して行く職種から見たら、スッキリとして楽な立場でしょう。
しかし、それはとても恐ろしい事でもあります。

        物理的な到着時間までに、内容をも完結しなければならない、
        後で考えてやり直す事が出来ない

と言う条件の下、安全に快適にそして定時に完結するか否かによって、お客様の満足度が天と地ほど違うからです。

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25 スチュワーデスの停年 [あるスチュワーデスの思い出]

久しぶりにCAの話題です。

今の時代、どこの航空会社でも、女性の客室責任者や中年の女性CAなんて当たり前ですよね。
ところが1970年代半ば頃までは、特にアジアの航空会社では女性は若いことが売りでした。
最長5年しか飛べないとか、29歳までとか、結婚したら飛べないとか…
その頃私も、才色兼備のベテランのお姉さま方が、昨日ラインに出て来た新人男性CAより下にランク付けされているのを、複雑な思いで見ていました。

しかし時代と共に女性の停年も5年延び、10年延びして、やがて夫あり、子持ち当たり前、昇格も60歳停年も、制度上は男性と同じとなったのです。

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21 ペルシャ湾の藻屑と 後編 [あるスチュワーデスの思い出]

足元の水を見ると歩いて帰れそうなくらい遠浅です。しかしだまされてはいけません。ここの海底は粘土質の土壌ですから、立とうとすればずぶずぶと引きずり込まれて行き、自力で再び浮き上がる事は出来ないのです。

やはり帆を立てるしかないともう一度試みていると…

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20 ペルシャ湾の藻屑と 前編 [あるスチュワーデスの思い出]

皆様! 長い間の無断休業、大変申し訳ありませんでした。
昼も夜も細切れの時間ばかりで、思うに任せぬ生活です。でも少しづつですが続けてまいりますので、引き続き宜しくお願いいたします。

さて、今日はアラブ首長国連邦に滞在した時の私的な経験をお聞き下さい。

1980年頃の南回りヨーロッパ線の中継地の一つ、アラブ首長国連邦の首都・アブダビ。就航便数が少ないため、必ず3~4日の滞在となります。比較的治安の良い街でしたが、それでも女性が一人で気軽に観光に出かけることの出来る場所ではありませんので、皆、毎日ホテルにたむろしている事になります。

宿は海岸に建つゴージャスなリゾートホテルです。ペルシャ湾に面してプライベートビーチがあり、ペルシャ湾を出ればアラビア海です。(総務省の世界地図でその辺りをクリックすると中東の拡大図がご覧になれます。http://www.stat.go.jp/data/sekai/h4.htm#)

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19 ソウル今むかし 後編 [あるスチュワーデスの思い出]

88年ソウルオリンピックの頃以前、日本からの新聞や雑誌の韓国への持ち込みは制限されていましたし、日本の芸能や文化が流入することが厳しく制限されていました。そして逆に日本でも現代の韓国人の文化や生活に関わるニュースなど、殆ど知る機会がありませんでしたね。また、他の国々で韓国人を見かけることもめったになかった様に思います。飛行機のお客様では、時々、勤務明けで故国に帰る船員の方々が乗っていらっしゃるくらいでした。

しかし80年代後半、急速に日韓の人、文化、物の交流が激しくなるのと同時に、世界のあちらこちらで旅行者として、又、住んで働いでいる市民としての韓国人にも出逢うようになりました。

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18 ソウル今むかし [あるスチュワーデスの思い出]

1980年代後半に初めて滞在したソウルは、強烈なインパクトでした。

韓国線は、1970年から90年の退職まで何度となく飛んだルートです。けれど近い為いつも日帰りで、10数年間、入国したことが一度もありませんでした。それどころか路線は飛んでいながら、殆どなにもイメージを持つ事すら出来ないくらい、韓国と接触がありませんでした。

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17 最も喜ばれたお土産の思い出 [あるスチュワーデスの思い出]

 

誰かに何かをプレゼントをして喜んでいただけるのは、贈った側も嬉しいですね。

フライト先で買ったお土産で、喜んでいただけた物を幾つか挙げて見ることにしましょう。

先ず、ライラックの花束です。

えっ?とお思いかも知れませんね。
今では家の近所でもいくらでも見ることが出来る花ですが、それはここ20年くらいのことでしょう。昔は札幌のライラック祭りとか、ヨーロッパの風景に出てくるだけであまり身近な花ではなかった様に思います。
少なくても私はヨーロッパでしか見たことがありませんでした。

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