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12 失敗のお話し その2

以前に連載しておりました記事の中で、
「あるスチュワーデスの思い出」シリーズだけを
このブログLilac Daysに、また、「アラスカ夏紀行」
Lilac Days in Alaskaに復活させて参ります。
古い記事で恐縮ですが、どうぞ宜しくお願い致します
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もう一つ、アホなお話しを。
東南アジア便です。


香港、バンコク、ジャカルタなど、東南アジアの便は比較的時間が短い上に盛りだくさんのサービスです。時差も少なく、昼間のフライト、お客様は疲れていらっしゃらないので、到着間際まで飲み物が出るわ 出るわ。


団体のおじ様方は私達を「ねえちゃん!」と呼びます。
「ねえちゃん、水割り」
「ねえちゃん、お茶、お茶!」
「ねえちゃん、ねえちゃん、ビール!」 と言うように。


ある時
あるお客様:       ねえちゃん、ねえちゃん、ビール!
私:           わたくし、ねえちゃんではございません。
そのお客様の周辺:    シーン!
私:           わたくし、おばちゃんです。
皆様:          ギャハhhh!


それから到着まで、あっちからもこっちからも 
「おばちゃん、おばちゃん、水、みず!」 
「おばちゃん、おばちゃん、お茶、お茶!
「おばちゃん、水割り!」 「おばちゃん、ビール!」 
「おばちゃん!」 「おばちゃん!」 「おばちゃん!」


あ~~~、ヒーッ""" 


 


 


 


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12 失敗のお話し その1

今日はアホなお話しを。


先ず、東京ーモスクワでの大失敗。


私は初めてのファーストクラスの厨房担当です。
当時はモスクワーパリ間で使う食事も東京で搭載していました。使うのは10時間以上先ですから、悪くならない様にしっかりとドライアイスを効かせなければなりません。
ファーストクラスの分厚いステーキは、東京でガチガチに凍結した状態で搭載されます。
モスクワーヨーロッパ間のCAの為に適当な時期にドライアイスを取り除いて解凍しておくのが、東京ーモスクワの厨房担当の重要な仕事です。


さて、飛行機はモスクワに到着。厨房を綺麗に片付け、必要書類を作り、引継ぎのメモも書き、全てを上司に報告して、後は出発の乗務員と会って引継ぎをするだけです。


先輩のお兄様: 「ステーキのドライアイス抜いといてくれた?」
私:        「はいっ!」


実は新米の私は、この質問の意味が分かっていなかったのです。それなのに無責任にも「はいっ!」 と答えてしまったのです。


空港からホテルまでのバスの中で、謎の質問がずっと気になっていました。ステーキは東京からの夕食に出してしまったのに…
そう言えば >_<!  以前に別の先輩がモスクワーパリのステーキの事を注意していたのをようやく思い出しました。


しかしその頃、ガチガチのステーキを発見してギンギンに怒っているであろう先輩のお兄様を乗せた飛行機では、離陸後ベルトのサインも消え、皆慌しく食事の準備に取り掛かっていたことでしょう。


今のように「解凍」キー付きの電子レンジなどない時代ですから、モスクワーパリ、3時間のフライト中にあのお肉は、絶対にお客様に出せる様に溶けはしません。メインディッシュはステーキご希望の方が多いのに…
お気の毒なお客様。 お気の毒な先輩様。 ごめんなさい! 


 


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11 タイの友だち


私が最初にバンコク便に乗務したのは1970年の2月です。滞在していたホテルに、シルクやコットンの小物とファッションジュエリーを扱う店がありました。経営者のお嬢さんのレックとマユリー姉妹と私は、すぐに親しくなり、バンコクに行けばいつも一緒に過ごすようになりました。10代だった彼女たちと、22歳だった私の長い長い付き合いの始まりです。


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                                 バンコク郊外  どこまでも続く椰子の林


当時のバンコクのタクシーは、日本で廃車になった車を輸入したものだったと聴きましたが、ポンコツ寸前ではあってもちゃんとエアコンがついて、とても便利な庶民の足です。

メーターがついているものの実際には使わず、お客は乗る前に行き先を運転手に告げて料金交渉をするのです。高いと思えばやり過ごし、納得行けば乗り込みます。日本人の私がいると高い事言うからと、交渉している間「あなたは見えないところ隠れてて!」とよくレックに言われました。


タクシーよりもっと安い「トゥクトゥク」と言うのにもよく乗りました。二人乗りの幌つき馬車をオートバイが引くような三輪の乗り物で、ガタガタ揺れるしうるさいし、決して乗り心地の良いものではありませんが、風を切ってぶっ飛ばすのが面白くて大好きでした。


当時は電車も地下鉄もなく、郊外へ行くには汽車、街中ではバスが公共の乗り物です。バスも解体寸前のような、ドアも窓も閉まらないものに、ラッシュ時には人が鈴なりにぶら下がって乗ります。最初の頃運賃が日本円で5円だったように記憶しています。
1980年代には窓の閉まる、エアコン付きのバスが走るようになり、とても快適になりました。
彼女たちと少し遠出するには、たまにお父さんの車で連れて行ってもらえる時以外は、これらの乗り物を利用しますが、バスの時はいつも「お財布気をつけて!」と言われました。


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        縦横に張り巡らされた運河  貧しい人々には生活の場です


 仏教徒が国民の95%を占めるタイでは、街中にも沢山の寺院や仏塔がありますが、どこでも土地の人々と様々な供え物、ろうそく、線香で大変賑わっていた光景を思い出します。


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                            寺院の庭


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                                寺院の内部

日本でも家に神棚や仏壇があった様に、また、庭にお稲荷さんを祭っている家があった様に、レックたちの家にはもちろん、多くの店やレストランにもタイ式の小さな仏壇がありましたし、庭のある家や会社はほとんど全てに外用の仏壇が立てられていました。
レックたち一家も敬虔な仏教徒です。彼女たちは街に出る時、乗り物の中からでもこれらの寺院などを見つけると、必ずそちらを向いて手を合わせていました。


私がレックとその家族に最後に会ったのは、1990年に夫と一緒に行った時で、一週間ほど家に泊めていただきました。その頃は二人とも外資系の企業のOLとして働いていましたが、わざわざ休暇をとって迎えてくれたのです。その後は家族で遊びに行く機会もないまま、たまに手紙をやり取りするだけの関係になってしまいました。


その頃以後のタイは、学生運動、革命、通貨危機、そして最近の政界のスキャンダルなどに揺れながらも、経済発展を続けているように私は遠くから感じているのですが、私が出会った大勢の穏やかで謙虚な人々の生活も、経済成長と共に慌しくなって行っているのでしょうか。


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 郊外の住宅地    右はレックの家


仕事を通じて出会った人々の中で、今、最も会いたい友だちはレックとマユリーです。


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10 マリア・カラスが私のフライトに

 


私はイタリアオペラが好きです、大好きです。生まれ変わった絶対にオペラ歌手になります。
そして、私はマリア・カラスを深く深く敬愛しています。


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                      1958年ロンドンでの「椿姫」


そのマリア・カラスが私のフライトに乗って来日したのです!


1974年の10月、マリア・カラスは韓国・ソウルから日本へ入りました。ワールドツアーの最後の国が日本だったのです。既にオペラは歌わなくなっていた彼女ですが、ジュゼッペ・ディ・ステファーノと共に、リサイタルのため来日したのです。


日本国内で5都市、7回公演しましたが、11月11日の札幌が記録されている限り彼女の生涯の最後の公式舞台となりました。
51歳、亡くなる3年前のことです。


 9072440.jpg          1955年ミラノでの「ランメルモールのルチア」より


その頃の私は、暇さえあれば、分かりもしないイタリア語のリブレットを見ながら、家ではLP(!)で、ウォークマン(!!)出現後はフライトでの滞在先でも彼女の歌を聴いていました。 


当時の東京ーソウルのフライトは、今のこの路線からは考えられないほどの、盛りだくさんのサービス内容でした。2時間前後の中で有料のお酒、温かい食事、機内販売…
まだまだ外国のお酒・煙草が日本で貴重だった頃ですから、多くの方が食事が下がるのももどかしくお買い物で、免税品販売に本当に時間がかかりました。滑走路が見えてもまだ終わらないと言う危なっかしい状態です。


出発前のインフォメーションでVIPとしてMrs. Maria Callas とMr. Giuseppe Di Stefano の名前が知らされた時、わが耳を疑いました。
エコノミークラスの一番後ろ担当だった私ですが、ファーストクラスのお二人に会わずしてこのフライトを終えるわけには行きません。


結局、到着直前に、ほんとにお顔を拝見するだけの時間抜け出してファーストクラスに行ってしまいました。一番前の左側のお座席で、お二人ともリラックスしたご様子、上機嫌でいらっしゃいました。上機嫌でいらっしゃる事に満足して、私は幸せな気持ちで一番後ろに帰りました。そしてそれ以上何も無いまま、フライトはあっけなく終わってしまったのです。


あ~ぁ 私がもう10年早く生まれていれば、一度くらいは実際のオペラの舞台を見る事が出来たかもしれないのに~~                      


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9 救難訓練

「CAのお仕事」について書き、フライトのシュミレーションをしてきましたが、そもそもCAって何のために飛行機に乗っているんでしょうか。
食事や飲み物は自動販売機で代用可能は可能ですし、免税品は圧倒的にスペースの大きい空港の店の方が充実しているに決まってます。もし航空会社が客室乗務員と言う職種を廃止したら、浮いた人件費で運賃を安くする事が出来るでしょう。特に短いフライトなら自前のお弁当で良いから安い方が嬉しいと言う方も多いのではないでしょうか。でも福岡ー釜山の20分のフライトにも必ず複数のCAが乗務しています。
CAの対旅客サービスの多くを、ひとまず機械で行う事が出来るでしょう。しかし、機械で代用できない事があるんです!


緊急事態を頂点とした種々のトラブルに対処する事です。
そうです、CAは第一義的には、緊急事態に乗客の安全を確保するために乗務しているのです。機種別に保安要員としての最低乗務員数が決められていて、それを下回って飛行機を飛ばす事は出来ないのです。

飛行機事故は離着陸時が圧倒的に多く、その場合突発的です。マニュアルを探したり、機長やチーフの指示を待つ時間など無い事が殆どです。ですから新人であっても瞬時に自分の判断で行動しなければならないし、そこに大勢の方々の命がかかっているのです。


「ある日のフライト」の次にはこのテーマで書こうと準備していましたら、たまたま中華航空の事故です。
ニュースでも「90秒で全員脱出」と言っていましたが、着陸してターミナル前まで来て、誰もが無事到着!と、ほっとした瞬間の出来事です。各ドア担当のCAの一瞬の的確な判断と、パニックになりながらも先を奪い合わなかった乗客の皆さんの連携プレーの勝利でしょう。ちょうど翼(つまり燃料タンクとエンジンがあり、一番火の出易いところ)の上にも非常口がありますが、これを開けなかった事も正解でした。(この非常口は火の手の上がらない事が確認されている、不時着水の場合などに有効なのです)


前置きが長くなりましたが、今日のテーマは救難訓練です。


全ての航空会社が、乗員の救難訓練に多くのエネルギーを注いでいると信じていますが… 
これだけは、実際に何度も経験して技量を磨くなんて言うことが出来ませんから。
各社知恵を絞っている様ですが、私達の場合には、一人前になってからも毎年二回訓練とチェックを受ける事が義務付けられていました。もちろんとても厳しいものです。講義の後、たくさんある実際の緊急機材を使って、各自が正しく作動させられるかチェックされます。そして仕上げは緊急着陸と着水のシュミレーションです。飛行機と同じに作った部屋で教官から与えられられた設定に基づいて、全員が地上または海に見立てたプールに脱出して無事機体から離れるまでを、与えられた時間内に正しく行わなければならないのです。爆発音や煙まで出ますから臨場感満点で、訓練と解っていてもいつも心臓がドキドキします。
そして毎回のフライトでも出発前に確認がなされます。
フライトの安全を真剣に考える会社は、利用しないで済むのが最も望ましい事である緊急機材や訓練に多大な費用と時間をかけるのです。
私がスチュワーデスを辞めた時、「これで救難訓練から解放された!」と思ったら本当に心が楽になったのを覚えてます。


普通、航空会社の宣伝に登場するのはニコニコと優しそうなスチュワーデスに、冷静で凛々しそうなパイロットですね。でも私は航空会社で最も重要な職種を一つ挙げろと言われれば、それは整備士ではないかと思うのです。乗員はこのように訓練を受けますが、訓練の成果を永遠に示すチャンスが無い航空会社が、最も良い会社ですよね。それには飛行機が設計段階から完璧に作られている事はもちろんですが、エアラインに引き渡されたあとのメンテナンスは整備士の出番です。乗員・乗客は、何事も無いときには表面に出ることの少ない彼らに命を託しているとも言えるのです。


それにしても、今回の事故ですが、今後同じような事故の発生を防ぐために、原因が正しく究明され、有効な対策が立てられる事を切に願うものです。
安全は当たり前の前提ですから宣伝にはならないかも知れませんが、食事より、ゆったりした座席より、安全にかけるエネルギーを競い合う宣伝って無いかしら。


  私の夢想
   豪華なホテルのような内装、ゆったりと寛げる座席とラウンジ、世界のグルメを
  うならせる食事、何くれとない、けれどうるさくなく、さりげないCAのサービスの
  ≪超ファーストクラス≫ と、食事なし、飲み物なし、新聞・雑誌なし、映画・
  オーディオなし、笑顔なし、CAはヘルメットに安全
靴、難燃性のトレーナーが制
  服の屈強な若者が最低人数居るだけの、≪超安クラス≫ の二通 
りを運航している
  エアライン。もちろんどちらも安全性は完璧。
   こんな二極分化にならないでしょうか?


   私が乗るのは後者ですけど… 


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8 ある日のフライト 後編

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 私が最後にタイを訪れてから既に17年の歳月が経ちます。


 私の記憶の中のバンコクは「静」と「動」、「聖」と「俗」がお互いを干渉せずに同居している、静止画と動画が一幅の絵の中に納まったような空間です。


 広い空と、西日を受けて光り輝く寺院の屋根、すぐ隣りにはすさまじい喧騒の大通りや市場。
排気ガスとクラクション、ドリアンと椰子油の臭い、スピーカーから流れる大音量の音楽。


 さて、1987年に戻り、フライトで疲れた体でその絵の中に再び入って行きましょう。


 バンコクのドンムアン空港は町から遠いので、ホテルに着いたらもう5時半です。部屋に荷物が届くや否やシャワーを浴びて私服に着替えます。大きな窓にかかったカーテンを全開にしてベッドカバーの上に大の字になったまま、しばらくの間茜色に移り行く空を眺めていました。
皆と夕食に行きたい人は、6時半ロビーに集合です。ここの料理は大勢いた方が楽しいから、私も一緒に行くことにしました。
 ロビーに下りて来たのはキャプテンやチーフや、合計6人。残りの人は疲れてしまって、ホテルのコーヒーショップで済ませるのでしょう。


 歩いて10分位のところにあるクルーがよく行く店、タイ料理と中華料理を混ぜた様な、安くて美味しい庶民的な食堂に、今回も行きました。


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 メニューは:緋烏賊の丸ごとカレー揚げ、空芯菜の炒め物、あさりの中国酒蒸し、黄にらの炒めソバetc.飲み物は青島(チンタオ)ビールとグラスに注がれた熱いジャスミンティー。


 その後、皆はディスコに行きました。古い?あくまでも’78年の設定ですから)
私は明日、朝早くからタイ人の友だちと出かけるので、先に帰って寝る事にしました。(長年の友だち、レックとマユリーは、後日改めてご紹介しようと思ってます。)
 あしたは一日休みで、あさって日本に帰ります。


 そうそう、機長がスケジュールチェンジになり、帰りの344便は急遽キャプテンMになったと連絡がありました。
何かの事情でCAが一人足りなくても(普通は無い事ですが)フライトは可能です。でも機長が一人足りなければ絶対にフライト出来ませんから、きっと明日の午後の便でDHで着くのでしょう。


 「Dead Head」 おかしな名前でしょう?乗務の前や後に、ある区間を旅客として移動することをこう呼びます。フライトの大幅な遅れや病気など様々な理由で欠員が出来た場合に必要人員を出発地に送るために、また、乗務から外れる乗員を基地に帰すためにDHします。時には元々乗務パターンに別のエアラインでのDHが組み込まれたものもあり、それは他の会社のサービスを経験できるので、とても勉強になり楽しくもありました。


 今10時半、日本時間で12時半。長い一日でした。もう寝ます。
お休みなさい。


 


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7 ある日のフライト 前編

以前に連載しておりました記事の中で、
「あるスチュワーデスの思い出」シリーズだけを
このブログLilac Daysに、また、「アラスカ夏紀行」
Lilac Days in Alaskaに復活させて参ります。

古い記事で恐縮ですが、どうぞ宜しくお願い致します


ある日のフライトを再現します。架空のものです。


便名:Sunshine Air Lines 345便、
日付:1978年8月17日(金)
時間:午前10:30発 午後3:05着
区間:東京/バンコク
乗務パターン:往 TYO/BKK、345/18、
       復 BKK/TYO、344/20            


持ち物:パスポート、身分証明書、財布、マニュアル類、制服一式…
個人的な持ち物:あの夏のワンピース、白いTシャツ、ジーンズ、白いサンダル、
        サングラス、一応水着、友だちのレックとマユリーにお土産の胡麻煎餅…


8926502.jpg           1970年代なかばの羽田空港とタイ航空機


 今日は久しぶりにバンコク便です。
 操縦室は先日香港便でご一緒した山本キャプテン以下3人、CAはチーフの谷口さん以下8名が私のグループのメンバーで、残り5人が隣りのグループの、総勢16人です。
 お客様は夏休みですからほぼ満席。


  旅客数:ファースト;32、ビジネス;62、エコノミー;257+赤ちゃん2。
  飛行時間:6+35、時差-2
  サービス:昼食、映画、機内販売、軽食。
  飛行高度:10,500m
  巡航速度:毎時950km
  航路上の天候:おおむね良好。離陸約3時間半後に多少の揺れ。
  到着時の予想天気:晴れ、34℃


 今日の私の担当はエコノミークラス。離陸前、新聞を配っていた新人スチュワーデスの青木さんが、なにやらキャビン中央で立ち往生しています。


私   どうしたの、青木さん。
青木  はい、こちらのお二人のお客様が、同じ座席番号だっておっしゃるんです。
私   搭乗券拝見して、日付と便名も確認してね。
青木  はい。
    お客様、ご搭乗券拝見できますか?
私   あってるわね。ダブルアサインだから、後は私するわ。あなたは新聞続けて頂戴。
    お客様、申し訳ございませんが、ひとまずこちらにおかけななってお待ちいただけ
      ますか?すぐに調べて参りまして、新しいお席にご案内いたしますので。


 座席はコンピューターで管理されていますが、時々このようなミスがあり、地上職員に空席を確認して、そちらにご案内します。(但し、このフライト当時はまだ手作業だったと思います。でもその頃の方がこのようなミスがなかったような気がします。) それからたまに、違う便のお客様が間違って乗っていらっしゃることも!
 私が他の航空会社でお客として乗った時、同じケースに会いました。たまたまエコノミークラスが完全に満席だったので、ビジネスクラスにしてもらえたことがあります(^-^) 飛行機では安全上、立ち席と言う訳に行きませんからね~~  


 離陸の順番待ちで20分遅れましたが、無事に離陸しました。右に真夏の富士山を見、ランチの終わる頃には桜島の噴煙を見、そして台湾の上空を通過して行きます。予想通り3時間半で少し揺れがあり、私達乗務員も座ってベルトをしました。始終飲み物のリクエストがすごく多くて、どのキャビンもてんやわんやではありましたが、トラブルなくあと1時間半で到着、その前に軽食のサービスです。


私   青木さん、45Aのおばあちゃまの入国書類大丈夫?
青木  伺ってきます。
私   もしお持ちでなかったら書いて差し上げてね。

私   チーフ、57列に3時50分発に乗り継ぎの方がいらっしゃるんですが、着陸前にドアサイ
    ドにご案内していいですか? 
チ―フ そうね、15分遅れで3時20分到着だから、先に降りていただこう。
私   はい、57BとCの鈴木様、お二人連れです。お荷物は黒のスーツケース一個、これがク
    レームタグナンバーです。
チ―フ 有難う、地上に引継ぎぐよ。


 飛行機が遅れている場合乗り継ぎ出来なくなることもあります。急げば間に合う場合には先に降りていただける様、またチェックインの荷物をすぐに見つけ出せる様にして地上職員に引継ぎます。
 望みなしの場合、次の便の手配その他しなければなりませんので、この場合も地上職員の援助が必要です。
 お客様はいづれにしても不安があれば、スチュワーデスに相談なさるといいですね。


 そうこうしている内に飛行機は、バンコク・ドンムアン空港に到着しました。お客様は全員降機、忘れ物もなし。CAの皆さんも忘れ物しないでね。
 ほら、誰かアナウンスの本忘れてる。担当してた小川さんね。


 早朝に家を出て、長~い一日でした。みんな、お疲れ様。でもホテルに着いたらシャワーを浴びてシャキッとするわ!さあ、夕食はどこへ?


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バンコク チャオプラヤ川のほとりに立つ、暁の寺・ワタルーン(?だったと思うんですが、どなたか教えてください)


 ~~バンコク滞在記は次回に続く~~


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6、CAの仕事とは?

 そもそもスチュワーデスってどんな仕事をしてるのでしょうか。
 実は私自身、入社するまで飛行機に乗ったことがありませんでした。今の様にテレビドラマの題材になることも無かったので、彼らが具体的にどんな仕事をしているのか考えたこともありませんでした。(それで試験を受けるなんて、あまりに無責任な!)


 今回は、スチュワーデスの仕事の流れをざっと追ってみます。あくまでも「私がいた頃の、私がいた航空会社の」ですから、時代により、会社により違いがあることをお含み下さい。


 一月単位で発表される自分のスケジュールに従って、フライトの出発時間の1時間45分前までにオフィスに行きます。しかし実際はその更に40~60分前ぐらいには着いていて、制服に着替えたり、業務指示文書をチェックしたり、つまりフライトにまつわる自分の用事を済ませます。客室の責任者は、この時間に広い飛行機の中で、誰がどこを担当するかなど決めてチャートを作ります。


 1時間45分前に全員揃って打ち合わせを行います。お客さまに関する情報、例えば、人数はもちろん、小児、車椅子や特別食をご希望の方、VIP、特別のケアーを必要とする方などが知らされます。そして路線の特性や注意事項、今日のサービス内容とサービス方針、到着地の免税基準などの確認、保安に関する知識や動作の確認などを行って、これらを全乗務員が共有します。

 それが済むとキャプテンたちと合流して、飛行情報や万一の時の対応などを確認します。

 その後出国審査を経て、1時間ほど前には飛行機に乗ります。乗り込んでからは各自の持ち場の保安機材チェック、食事と飲み物の数と内容のチェック、様々な備品と道具類、例えば厨房用品、トイレの備品、救急箱、新聞、雑誌、おもちゃ、機内誌などの搭載と、正常に機能するかの確認をし、使いやすいように可能な限り準備する、etc.etc.  


 自分の守備範囲を確実にこなす事と、したことを報告する事が求められます。なぜなら、何人もで同じ所をチェックすると言う時間のロスを省き、尚且つ絶対に漏れがあってはならないからです。一旦離陸してしまえば、そこにある物資と人と知恵で着陸まで全てをまかなわなければならないのが飛行機です。もし満席12時間のフライトなかばでトイレットペーパーの予備が無くなったら?これは大変なことです。


 ※特別食:療養食や宗教上の理由によるもの。例えば糖尿病や高血圧の方の食事、イスラム教徒の豚肉を使わない食事など、色々あります。


 そして最後に不審物がないことを確認し、各自のビューティーチェックもして、30分前にはお客様を迎えます。


 離陸後は飲み物や食事サービス。今は私も乗客の立場で乗りますから、客席から見ていると皆にこやかにゆったりとサービスしているように見えるのですが、カーテンの陰、調理室では彼女たち髪振り乱して働いていことでしょう。


 そして二回目の食事までの間、機内販売、映画の上映、トイレの清掃、次の食事が傷まないようにドライアイスのチェック、入国用の旅客と乗員の書類、機体と貨物及び機内の搭載物品に関する書類の準備、乗客の病気やトラブルへの対応、稀に出産や機内で亡くなるケースもあり、これら全てに対処することがCAの仕事なのです。


 機内は老若男女、様々な人種、様々な背景や事情・目的を持った人々の共同の生活の場であり、社会です。大地から1万メートルも離れた大空にぽっかりと浮かぶ、小さな運命共同体です。CAの仕事は、この運命共同体の中にいる全員の生活を安全に、快適に完結させることなのです。


 次回は、ある日のフライトをシュミレーション致しましょう。


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  イタリア ナポリの空


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  日本の空  


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   アラスカの空


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   日本の空 


 


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5、第三次印パ戦争

 中近東を経由して行く南回りヨーロッパ線は、その時々の政治情勢によって、寄港地と乗員の滞在地が変わります。

 イランは、今でこそ宗教的な戒律を非常に重んじる国ですが、1979年にイスラム革命が起きる以前は西欧化路線をとるパーレビ国王の統治下にあり、テヘランの人々の生活は数日滞在するだけの私の目には、イスラムの国とは思えないほど華やかに見えましたした。欧米のようなファッショナブルな装いの女性も沢山いましたし、チャドル(女性の体全体を覆う黒い布)を着用した女性も裾を翻してカラフルなミニスカートをのぞかせていたものです。 1970年代初め、大学でもオフィスでも当然のこととして女性達が活躍していました。何といっても、アメリカ系のホテルであるシェラトン・テヘランがあって私達乗員はそこに宿泊していたのですから、今の政治情勢からは考えられないことです。バザールでのショッピング、モスクや博物館の見学、観光など、車や徒歩で可能でした。

              8867183.jpg 
                     こんなミニチュアゴルフも出来ました。(1974年)

 一方イランの東隣りの国、パキスタンは1947年の英領インドからの分離独立後、カシミールを巡ってインドと対立し、不穏な情勢が続いており、70年代初め当時カラチへは就航していませんでした。(後に就航し、私も何度も滞在しました。)

 1971年の秋のある日、私はバンコクからのフライトで到着してテヘランにいました。
 翌日、会社から連絡があり、明朝カラチに臨時便を出すので乗務するようにとの事です。それでキャプテン以下10人ほどの一チームが帰りの便のための食事だけ積み、空(から)のDC-8でカラチまで行きました。けれど上空に来てもなかなか着陸しないのです。その理由は後で分かるのですが、ようやく着陸し、満席のお客様を乗せてすぐに出発です。
 お客様はほとんどが日本人の家族連れで、欧米の男性も少しいました。皆さん疲労と安堵の入り混じった表情で、中には泣いている方もいます。そして口々に「迎えに来てくださってありがとう」とおっしゃるのです。
この方たちは、少し前に第三次印パ戦争が勃発し、家を捨ててホテルに避難していた駐在員のご家族だったのです。
 食べ物はパンしかなく、それも乏しくなりかけていたのだそうです。そして搭乗に先立って、命の保証は求めないと一筆書かされていたのだそうです。
 フライトはどうにか無事安全なテヘランにたどり着き、そこから別の便で日本へ帰られました。そして私達乗員は予定のヨーロッパ行きのスケジュールに戻ったのです。
 テヘランのホテルに戻ってからキャプテンに聞かされたことは、「銃撃戦が静かになるのを待って合間を縫って着陸したんだよ」。
 どうりですぐに着陸しなかった訳です。

 その後12月に、東パキスタンがバングラディッシュとして独立したことを、私は新聞で知りました。

 

2018年9月の追記

 上記の文章は、この記事を最初に公開した時、つまり2007年8月(今から11年前に)その時点から36年前(今から47年前)の事を思い出して書いたものです。書いた当時、中東情勢はあの頃から大きく変わったと思いながら書いたものですが、2018年の今、11年前のこれを書いた時点からも世界は激動の連続だと言えるのでしょう。人類はいったいどこに向かおうとしているのか。

 また、この時はたまたま近くに居合わせた民間航空会社の一社員でしかない私たちが、会社の指示に従って戦時下にある空港に救出に行ったのです。しかし私はその後、このようなケースでの在外邦人の救出について、日本が大きな問題を抱えていることを知ることになりました。(関心おありの方は Wikipediaの「イラン・イラク戦争 」の項の 「3 影響 3.1 日本との関連」などをご覧ください。)

 


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4、カルチャーショック

 

 一人前になって飛び始めた最初の頃のお話しをしましょう。1970年の太平洋線です。
 今でこそ日本とアメリカ西海岸8000キロをノンストップが当たり前ですが、当時の飛行機は給油せずに飛べる距離が今の飛行機ほど長くなかったため、必ず往復ホノルルに立ち寄りました。更に冬場の向かい風が非常に強い時には、ホノルル・東京の6200キロさえも、途中アメリカ軍の施設のあった太平洋上の小さな島・ウエーク島で給油しなければならないことがありました。

 ある日のフライトで、出発時にお客様にはウエーク島に寄ることをご案内してはあったのですが、いざ着陸すると一人のお客様が給油のためだと言うことを信じて下さいません。絶対に機体に何か不都合があって不時着陸したのだと言い張ります。説明すればするほど、事実を隠していると思うもので、安心していただくのに大変でした。

 70年代初めと言えば、関東の私の周辺にはスーパーマーケットはありましたが、普通はカートではなくバスケットでの買い物です。そして古くからの商店街が、肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんなどで、まだまだにぎわっていた頃です。
 しかし、初めて行ったホノルルやサンフランシスコには巨大なスーパーがあり、人々が車でやって来ては今の日本のスーパーのカートよりはるかに大きなものに山盛りの生活物資を買って行くのにびっくりました。

     その頃日本では     アメリカでは
 牛乳  180ccのビン     クオート(1リット弱)単位の巨大パック
アイスクリーム一人用カップ       〃 
 卵   1個単位        1ダース入りの箱  
 肉   100gとか50gとか    ポンド(lb≒450g)単位
                 大きな塊や鶏一羽当たり前

 グレープフルーツは都心の高級果物店に麗々しく並んでいる以外見たことありませんでした。アボカド無し、ズッキーニ無し、ハーブ無し、マッシュルームは缶詰、ワインと言えば一般には甘い赤玉ポートワインの時代です。

 1ドル=360円ですから、円に換算してしまうとハンバーガー一つ買うにも勇気の要る私なのに、アメリカ人て皆大金持ちなんだ!と思いました。

 私が初めてのフライトで買ったものは、日本ではまだ憧れだったテフロンのフライパンです。
 先輩に「若いうちにこう言うもの買うといつまでもお嫁に行けないのよ」と言われました。多くの女性には寿退社があこがれの時代だったんですね。
 でもその故か、実際私は40少し前まで独身でしたわ。 


 2018年の今の追記:
 若き日に
私を驚かせたアメリカのショッピング事情ですが、今こうして見るとアメリカの単位に驚くより、昔の日本のささやかさに驚きますね。
 若い方には、卵を一個単位で売っていた時代があったなんて、考えられないでしょう?

 

 

 

 


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